番組概要
越前の戦国大名・朝倉氏最後の当主となった朝倉義景の敗北を紐解く。一乗谷に文化の華を咲かせ、大いなる繁栄を築きながら、織田信長に滅ぼされてしまった理由とは?
番組詳細
織田信長と敵対し、滅ぼされた朝倉義景の敗北から現代に通じる教訓を探る。但馬国を発祥とする朝倉氏は南北朝時代に越前に入り、室町時代、越前の守護代に任ぜられた名門。七代当主・孝景の時代に越前一国を治める戦国大名となった。1533年に誕生した義景は16歳で十一代当主となり、武勇で名を馳せた宿老、朝倉宗滴の補佐を受け、政務や軍事に取り組む一方、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に京風の雅な文化を開花させた。
1565年、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害されると、義景は義輝の弟・足利義昭を一乗谷で匿うが、義昭の上洛要請には応じなかった。義昭が信長を頼って上洛すると、義景は信長と対立し、苛烈な戦いに身を投じる。一時は信長を追い詰めるも、武田信玄を巻き込んで信長包囲網を強化する中、戦線を離脱。1573年、本拠地・一乗谷を焼かれ、自刃の道を選択せざるを得なかった。義景はなぜ、信長に屈してしまったのか?
義景の死後、義景の母と妻子は織田軍に命を絶たれ、五代100年余りの栄華を築いた、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。三日三晩、炎上した後、長らく放置されていたという一乗谷の遺跡から、義景が抱いた夢の欠片が出土している。薩摩の島津氏らと通じ、琉球や大陸との交易も構想していたという義景は経済力と文化力を高めることでさらなる繁栄を導けると考えていた。義景が生涯をかけて追い求めた夢とは何だったのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
伊東潤(歴史作家) 中西悠理(フリーアナウンサー) 【ナレーター】槇大輔
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