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「大河ドラマ「花燃ゆ」」のクチコミ(口コミ)(9ページ目)

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投稿者:松陰先生の原型は玉木のおじ様の影響③

投稿日:2015/03/08

「私」の怠け心に負けて松陰の学問が一日遅れれば
「公」の存在である藩の学問がそれだけ遅れるから、玉木のおじ
様にそう教育されたのですが。
松陰寅次郎は平気で自分「私」を犠牲にする癖がつきましたねえ。
死罪になってもかまわんから平気で外国に行くとか、死罪覚悟で
お殿様に意見書を提出するとか。
過激者になりましたね。

投稿者:松陰先生の原型は玉木のおじ様の影響②

投稿日:2015/03/08

人は所詮「私」から離れられないものだが、どうやら「公」のた
めに、その心を捨てる事を松陰は若くして強要された。
吉田家を継いだとは言え、まだ5才。
将来、毛利藩の軍師範にならなければならない立場とは言え、恐
るべき教育でしたねえ。

投稿者:松陰先生の原型は玉木のおじ様の影響①

投稿日:2015/03/08

なるほど「公」に生きるか。滅私奉公ですねえ。
思えば5才の時から松陰寅次郎は、おじの玉木文之進にスバルタ
教育で「私」を押さえるように教育を受けてきた。
殴られながら、そう教えられてきた。
「寅、おごったか。痒みは私の心。かく事は私の満足。
 それを許せば、長じてロクな人間にならない」
「武士とは公に尽くす事以外にない」というのが彼の教育方針
でした。

投稿者:心は公なり

投稿日:2015/03/08

体は私なり 心は公なり
私を殺して公に殉う者を大人と為し
公を殺して私に殉う者を小人と為す

つまり松陰にとって公に生きることが正しい事という倫理感であり、現代に言う名誉欲とは違う。歴史に名を残すということは正しい生き方という考え方であり、幕末、松陰ばかりでなく他の志士たちもそれが行動規範の一つとなっていた。

投稿者:ホームドラマ

投稿日:2015/03/08

萩市に一度でも行った方なら分かるのだけど..
松陰先生の話を地元萩の人は、偉人の話というより、家族
とか親戚のように話すのですよねえ。
江戸時代からず~っと現在まで。口伝から口伝で。
私も萩の松下村塾に行った時にボランティアの女性の方に
説明を受けて、松陰先生を身近に感じた事があります。
このドラマもホームドラマのようで、松陰先生を身近な存
在に感じて欲しかったのかもしれませんね。

投稿者:楽しみ

投稿日:2015/03/08

今日もありますねえ、放送。
第10回。朝からワクワクしてます。
今日もしっかり見るぞ~!

投稿者:文ちゃんの事はよく知らないけど

投稿日:2015/03/08

文ちゃんは旦那と一緒に群馬県に行った後、晩年山口県に帰って
の防府市で暮らして、学校を作っているんですねえ。
現在も残っているようで、幼稚園みたいですね。
彼女の作った唄も残っていて歌詞に「松」と「陰」の文字が見え、
兄の「松陰」を慕っていた事が分かりますねえ。

投稿者:松陰は始祖 革命は三代によって成る

投稿日:2015/03/08

そうそう。死生観は人によって違うと思います。
松陰先生の偉人の死生観と凡人の死生観は違うと思いますよ。
彼はともかく精一杯生きた。
それはそれでいいと思いますよ。故・司馬遼太郎氏の他が書
いているように、
後世に多大な影響を与えた事は、歴史に詳しい人なら分かり
ます。彼は始祖ですから。

投稿者:ありのまま見ましょう

投稿日:2015/03/08

民治(梅太郎)役の原田泰造さんが言っていた事だけど、
長州は何と言っても革命児・高杉晋作だと思っていたそうだけ
ど、やはり根底の革命のターボエンジンに当たるのは松陰先生
だなと改めて萩に来てそう感じたそうです。
弟子たちだけでなく、坂本龍馬とか多くの志士達の賛同を得た
そうですよ。その事は遺跡に残っていますから、萩にくれば
どんな頑固な方でも自動的に分かりますよ。

投稿者:萩では松陰先生は特別扱い、別格

投稿日:2015/03/07

萩は、本当に未だに「松陰先生」なんです。
誰が何と言っても未だに、彼だけが「先生」と呼ばれます。
久坂玄瑞だろうが、高杉晋作だろうが、総理大臣になった
伊藤博文でさえ、萩では呼び捨てで全部OKです(笑)。
できるだけ萩では松陰先生だけ、後ろに「先生」を付けま
しょうね。

投稿者:世田谷松陰神社

投稿日:2015/03/07

世田谷松陰神社に行ってきました。敷地内に吉田松陰,来原良蔵や何人かのお墓もあります。ここに遺骨を移送する話はドラマでも描かれるかもしれません。
意外だったのは徳川家から奉納された灯篭と水盤があることです。徳川家といっても,誰の計らいなのでしょう。幕府が墓を破壊したことへの謝罪として,明治の初めの頃に奉納されたようですが,家臣はあまり残っていないし,徳川慶喜か。それとも天璋院?

投稿者:虎は死して皮を残し人は死して名を残す③

投稿日:2015/03/07

彼は生前は確かに失敗続きの人生だったけど後世の人に「松陰先生
」とか慕われて「松陰神社」も作ってもらえて、死後でこれほど讃
えられるとは、彼の思い通りの結果になったのかなと思う。

投稿者:虎は死して皮を残し人は死して名を残す②

投稿日:2015/03/07

但し、それは自分の「死後の名誉欲」というもので、ペリーの黒船
密航失敗で萩に籠で輸送されるまでの間(自分達の罪状を書いた)
「張り紙を何故、貼らんかあ!」と係の者に怒鳴っていたらしく、
何事も「一番槍」の「死後の名誉欲」はあったらしい。

投稿者:虎は死して皮を残し人は死して名を残す①

投稿日:2015/03/07

以前にも言ったのかもしれないけど、松陰先生は普通の人と違って
よい暮らしがしたいとか、出世したいとか、金、女が欲しいとか世
俗の事にはまるで無徳着で、まるで仙人のような人だったけど、
一つだけ名誉欲があった。

投稿者:JPG&R☆超過激思想で人心動かず

投稿日:2015/03/07

【死生観】は個々人により幅広く異なるもの。「松陰」は事のほか、周囲の人物を信じ愛しく想って居た事は解せる。その「松陰」の【性善説】を根幹に生き抜く姿勢は尊いが、余りにも善人過ぎた。幾ら、揺れ動く幕末と云う時代に在ったにせよ、前後の見境をも悉く欠如させ、軽々に【政権中枢の人物への殺意】を声高の吠え捲くるは、極一部の門弟には届いたにせよ、その超過激思想で日本国を憂いても数多の賛同を得るには遠かった。

投稿者:松陰先生の肖像画

投稿日:2015/03/07

松浦松洞が書いた有名な松陰先生の肖像画。
「松陰先生」とは言うけど、松下村塾を開いた頃は、
27才ぐらい。で30才ぐらいで死んだ。まだまだ若造。
亀太郎こと松浦松洞の書いた絵は、確かに少しフケ気味だねえ。
江戸へ引きたてられる直前だが、貫禄がありすぎる。
萩の松陰神社の境内にある至誠館は、修正した絵があるはず。

投稿者:心配していない  きゆう

投稿日:2015/03/07

このドラマ、松下村塾の松陰の弟子たちの中で、
前原一誠とか赤根(祢)武人とかの名前も見える。
かならずしも成功したとは言えない人だけど、
子孫の方も見ているので、単なる「裏切り者」とか
いう表現は止めて欲しいね。
NHKの事だから「杞憂」だと思うが。

投稿者:久坂玄瑞と坂本龍馬と亡き松陰

投稿日:2015/03/07

今日萩の平安古(ひあこ)町に行ったので、ひさびさに久坂玄瑞
の実家に寄ってみた。そこに書いていた事だけど、久坂玄瑞は、
土佐の坂本龍馬が萩に来た時(9日間滞在)に松陰先生の「草莽
崛起論」を教えたそうだ。
土佐も長州も大業ののためには、潰れても仕方がないという過激
思想。その年の3月に龍馬は突然に土佐藩を脱藩した。
松陰先生、死して龍馬を目覚ませたか。

投稿者:いやいや

投稿日:2015/03/07

人生悪戯に歳だけ重ねていて威張り腐っている年寄り連中
は多いよ。
松陰先生の死生観。松陰語録。松陰は全然違う。
「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」
この後、刑死した松陰の熱い檄は、志士たちを燃え上がら
せた。

投稿者:松陰の死生観

投稿日:2015/03/07

死して不朽の見込みあらば
いつでも死すべし
生きて大業の見込みあらば
いつでも生くべし
松陰の有名な言葉であるが、現代価値観で松陰を理解しようとすると迷路に暮れる。

投稿者:JPG&R☆如何なる場所も松陰の学び場だ

投稿日:2015/03/07

「松陰」の事だから、『野山獄』収監時にも解かる様に、例え、【遠島】に処せられても、その居場所で
も、人々の輪の中核に為り、互いに『学び合った』と推察出来る。「松陰」の生き様には、如何なる状況
、如何なる場所、如何なる人々に陥ろうが、悪戯に無駄に時を過ごす事などとは無縁である。無論、【斬首】の処せられても、天上で人々と論議を重ねて居る事だろうが、昇天するには、「松陰」は早過ぎたと強く想うよ。

投稿者:まさに行動の人

投稿日:2015/03/07

松陰の思想にダラダラ悪戯に歳を重ねるという思想はない
のだろう。
この命、どう使う?一つしかない命。一度しかない人生。
どう燃やす?
常々「学者になってもつまらん。」と言っていたようだ。
知るという事と行うという事は同じである。「知行合一」
まさに実行の人だった。精一杯生きた。
本人は自分の人生に一片の悔いもないのだろう。

投稿者:う~ん

投稿日:2015/03/07

今までドラマで、いろんな方が松陰先生を演じられたけど、
今までで一番伊勢谷さんの松陰がぴったりだと思います。
彼は楽天的で明るいけど、かなり失敗するし、人の善意を
無条件に信じるうかつさがありますから。

投稿者:松陰の危機感

投稿日:2015/03/07

松陰は四書五経に通じていただけではなく、佐久間象山に師事したことなどからも西洋機械文明にも通じていた。
そうした西洋列強に対峙するには、幕藩体制では対応しきれない、挙国一致の中央主権体制を渇望した。そこで先人高山彦九郎が唱えた天皇制国家に影響され、必然的に外交担当老中間部 詮勝暗殺計画へと飛躍し倒幕運動の先駆けとなっていく。

投稿者:匿名希望の上原サト:うん

投稿日:2015/03/07

そうなんだよね。
間部老中襲撃未遂事件を奉行から聞かれもしないのに、ペラペラ
お白州で自白したのも、松陰先生が
「幕府とて誠を尽くして話せばこの国の危急存亡の事態をきっと
理解してくれる」と思ったんだよねえ。うんうん。
やっぱ根底にあるのが『性善説』なんだよねえ。
その分、他人の善意を無条件で信じてしまう松陰の「うかつさ」
が最後にお白州で出た。

投稿者:親思う心にまさる親心

投稿日:2015/03/07

今週のマッサンの標語「親思う心にまさる親心」は,親子の間の深い思いを感じさせる。この句の作者の思いやり深い一面を思い量ることができる。別の一面,過激さ故に処刑された吉田松陰が,処刑される少し前に詠んだ詩の一部だと思うと切なくもある。

投稿者:JPG&R☆平成の我が国を如何想う~松陰

投稿日:2015/03/06

やはり、「松陰」は【生き急いだ感満載だ】。彼(松陰)の何も知らないが、ほんの少しだが、自己抑制を利かせて『遠島』に為って居れば、後の『明治政府』が救出に真っ先に貴殿(松陰)のもとに向かったであろう。その間、十年弱、幕末【黒船来航】に始まり【戊辰戦争】を経て、貴殿の門弟が挙って生きた教えを請う為に集まったは必定。享年30は、返す返すも残念至極。徳川~明治・昭和を経ての平成の我が国を如何に想う?。

投稿者:至誠

投稿日:2015/03/06

松陰の根本思想はやはり、至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり、だと思う。
松陰は幕府との対峙を、2段構えで臨んだ。
幕府とて誠を尽くして話せばこの国の危急存亡の事態をきっと理解してくれる。
万一それが不可でも、私の後に必ずやその遺志を継いだ徒が現れるであろう、と。
そしてそのとおりになった。この辺をドラマではどのように描くか楽しみ!

投稿者:JPG&R☆江戸幕府の面子ゆえの斬首

投稿日:2015/03/06

「吉田松陰」が傑出した頭脳明晰な稀有な人物で有る事は明白では有るが、己(松陰)の思想信条を胸に秘める事には不得手だった様である。『松下村塾』に身分を問わず、遍く、『学びたい』と云う人間なら何方でも歓迎と云う、大らかさが、幕府尋問での【口は災いのもと】に繋がってしまった。幕末とは云え【江戸幕府】の面子を悉く丸潰れにした「松陰」の言の葉。「松陰」が、今一歩、半歩でも『思慮深ければ』生命は救われた。

投稿者:JPG&R☆遠島を斬首に自らの軽口で格上

投稿日:2015/03/06

江戸幕府の尋問時に一本気な「松陰」は、詰問されて居ない事まで、丸で『自白グスリ』でも呑まされたかの如く、己(松陰)の胸のうちを、次から次へと『吐露』したとある。当初、幕府重臣連中は、「松陰」が、素直に自白して居る事とか、未遂と云うより頓挫して居る事等を考慮、『遠島』に処する判断が大半を占めたらしい。所が、「松陰」が【老中暗殺計画詳細を意気揚々と語る】が、大老井伊直弼の耳に入り【斬首】と為った。

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